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タレントパックンマックン

1997年にパトリック・ハーランと吉田眞により東京にてコンビを結成。以来、親しみやすいキャラクターと型にとらわれない独自の芸風で幅広い世代から人気を博している。また、バラエティや英会話番組などでも活躍し、近年では俳優としても活動の幅を広げた。自身の名を冠した定期公演「パックンマックンライブ」を都内で月に一度行っている。

パックンマックン


2012年にはコンビ結成15周年という節目の年を経て、これからさらなる飛躍が期待されるところですが、改めて、結成に至るまでの経緯をお聞かせください。

マックン学生時代から、吹奏楽部やバンド活動でステージにはよく立っていました。自分が何かパフォーマンスをすることで、それを周囲の人が楽しんでくれることが大きな喜びでした。そこで、お笑い芸人になろうと思い立ち、二十歳の誕生日に上京しました。ただ、しばらくは、ネタも書かずバイトに明け暮れる日々でしたね。「お笑い芸人になったらメシが食えない」とか「売れるまでパンとマヨネーズだけでしのいでいた」という話をよく耳にして、貧乏生活はイヤだと思っていましたから、お笑いで食べていけない時も、ちゃんとした生活ができるようにと、ひたすら貯金だけはしていたんです。そしたらだんだんとお笑いの方がおろそかになってしまって...。24歳の時、共通の知人を介してパックンと出会ったことが、コンビ結成のきっかけです。

パックンその言い方だと、なんだかマザー・テレサみたいだね。僕も人前に出るのはすごく気持ちよかったけど、みんなが喜んでいるかどうかは分からなかったけどね...。僕は父がアマチュア劇団の演出をやっていた関係で、子供の時から舞台に立ち始め、大学までずっと演劇をやっていました。大学を卒業して日本に来てからも、福井県で英会話の先生をしながら地元の「シベリア寒気団」という劇団に参加していました。大学の学費の返済が終わって、晴れて自由の身になってからは、夢だったハリウッドを目指すか、東京で俳優を続けるかで随分と悩みましたね。「ハイリスク・ハイリターン」のハリウッドと、「ローリスク・ローリターン」の東京。2つを天秤にかけながら考えた末、結局、人の前に出て、好きな仕事を毎日やれるという意味ではどちらも同じで、あとは自家用ジェット機が買えるかどうかだけの問題だということに気付いたんです。やはり「リスク計算」が大事ですね!
また、当時の僕は日本で役者を始めてまだ日が浅かったこともあり、あまり大きな役が回って来なかったので、有名になれば、きっと僕のために役を書いてもらえるチャンスもあるだろうと考えながら仕事を続ける中で、少しずつお笑い芸人へとシフトして行きました。日本のユーモアに対してとても興味があったことも要因のひとつですね。

お二人とも当時からとても堅実なお考えをお持ちだったようですね。アメリカ人と日本人のコンビは当時とても斬新な印象を受けましたが、現在では確固たる地位を確立されましたね。そこに至るまで何か苦労されたことはありますか?

パックン昔は僕も毎日パンとマヨネーズだけで...。

マックン絶対無いだろう!僕はお笑いで稼げるまではずっとアルバイトをして、風呂なしアパートに8年くらい住んでいました。コンビを組んでからも、パックンの家でネタ合わせしてから、お風呂場を借りてシャワー浴びてから帰ることもありました。銭湯代が1回分浮きますからね...。

パックン僕はお笑いと並行して俳優など他の仕事もしていたので、正直、生活的な苦労はそれほどありませんでした。むしろ、芸に関する苦労の方が多かったですね。「間」や「言葉選び」が特に...。例えば、坂本龍馬は日本人全員が常識として知っている人物ですよね? 僕はそんな常識を持っていないから、「なんとかじゃけん」と言って「龍馬かよ!」というツッコミがあったとしても、何がどうなっていて、何故みんなが笑っているのかが分からない。だから、日本のお笑いに必要な知識についてマックンにいろいろ教わりながら、少しずつ研究をしてきました。

パックン

※2013年2月11日時点の内容となります。

※このインタビュー内容は、個人の発言に基づき構成されており、投資信託協会がその内容を必ずしも保証するものではありません。